February 22, 2021

宇佐見りん「推し、燃ゆ」を読んだ

 アイドルを追うファンを描いた物語が芥川賞を受賞したということで興味を覚え『文藝春秋』の3月号を手に入れて読んだ。


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推し、燃ゆ
河出書房新社

推しが炎上した。ままならない人生を引きずり、祈るように推しを推す。そんなある日、推しがファンを殴った。(書籍紹介文より)


 読んでいるうちに遠い昔に読んだ村上龍の芥川賞受賞作品『限りなく透明に近いブルー』を思い出した。なんだか同じような匂いがする気がした。まぁ、自分はあまり純文学に馴染みがないのでたまたま同じ芥川賞を受賞した作品で過去に読んだことがある作品を思い出しただけなのかもしれないけれど。

 面白かったのは小説の中に普通に「SNS」や「ブログ」という単語がぽんぽん出てくるのに、登場人物達がいじる電話機が「スマホ」じゃなく「携帯」という表現になっていたところ。明らかに物語の中で彼らがいじっているのは昔のガラケーじゃなくてスマホなんだけれど、そこを「携帯」とすることに色々な含みがあるのかなと勝手に考えた。カタカナ表記じゃなく漢字で表記することで普段の生活の中に浸透して馴染んでいるニュアンスを出したかったのだろうか。ここに何らかの作者のこだわりがあるのかもしれないなと感じつつ、大した意味は無いのかもしれないけれど。

 あと気になったのは、主人公が入れ込んでいるアイドルを表現するときにひたすら「推し」という言葉が使われるところ。これもそういう言葉使いをする世代であることを印象付ける一つの手法なんだろうけれど、さすがにこの文字面は自分が年寄りだからということもあってすごく違和感を覚えてしまい、読んでいる間もずっと言葉として受容するのが難しかった。おそらくイマドキの若い人達であれば「推し」という言葉の使い方に何の違和感も無いのだろうし、そこに違和感を覚える老人達が頭おかしいぐらいの感覚でもあるのだろうとは想像する。

 改めて気付いたのは、芥川賞というのはずいぶんと病んだ主人公を丁寧に描写することで獲れる文学賞なんだなということ。考えてみれば『限りなく透明に近いブルー』もずいぶんと病んだ小説だった(もうどんな話だったのかはほとんど覚えてないけれど)。若かった頃は自分もこういう病的なほどに尖った感覚を表現してこそ芸術だと思っていたけれど、老いた今となってはもっと最初から最後まで何も起きない凡庸な世界をリアルに表現する方がずっと芸術ぽいのではないかと感じたりするようになった。まぁ、それが老いというものなのかもしれない。

 しかし、そうは言いつつも『推し、燃ゆ』という作品は、又吉直樹の『火花』よりは個人的に共感する部分が多くて、自分はまだまだ苦労が足りない甘ちゃんなんだろうなと反省したり(笑)。
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