August 04, 2013

映画「風立ちぬ」を観た(もしかしたらネタバレ)

 ジブリのここ最近の作品はものすごい興行成績と比例するように、貶されることにかけてもものすごい勢いで、今回の「風立ちぬ」にしても、封切りされた途端にネット上では実際の堀越二郎が描かれていないとか、恋愛の描かれ方がおかしいとか、喫煙描写がやたらに出てきて嫌だとか、そういうネガティブな話ばかりが目についた。で、元々ジブリの映画は一度も映画館で観たことがないし、今回もパスかなと思っていたんだけれど、飛行機の残骸がドーンと置かれたシーンが映画館の前に大きな垂れ幕になっているのを一目見て、あぁ、これは自分が観なきゃいけない映画なんだろうなと突然呼び込まれてしまった。

kazetachinu

 で、実際に作品を観てみて最初に強く感じたのは、自分が前評判で色々聞いて想像していた映画とは全然違ったということ。個人的にはとても面白く鑑賞できたし、難解な話でもなかった。飛行機の好きな自分にとっては、まったくもって素直で合点のいく内容だった。ただ、それだけに、この映画はスイートスポットがすごく狭くて、「飛行機が好き」という価値観が無い人にとってはかなり共感のしづらい話でもあるのだろうなと思う。

 さて、以下から先はネタバレなのでご注意。

 映画の冒頭、二郎が夢の中でカプローニ伯爵と出会い、飛行機の設計士になることを心に誓うところでこの映画は既にクライマックスだ。ハッキリ言ってそれ以降は単なる後日談でしかない。伯爵による「操縦する人間はいくらでもいるけれど飛行機を作れる人間はオレしかいない」といった主旨の発言こそがこの映画の全てであり、飛行機エンジニアを目指した世界中の少年(もしかしたら少女)の悲願が、あのシーンに込められている。本当に最高のシーンだった。自分はあのシーンが一番泣きそうになったし、人目を気にしなければまず間違いなく号泣していた。逆に言えば、あのシーンでそういう感動を覚えない人は、その後の物語を意味不明でちょっと強引な展開の変なおとぎ話として観なければならないことになる。それはハッキリ言ってつまらないし、映画館の椅子にずっと座り続けるという苦行でしかないかもしれない。

 子供の二郎の時代が終わったあとの映画は、飛行機の歴史の一端をファンタジーとして描くことに終始する。堀越二郎という人が設計した九六式艦上戦闘機は飛行機史上で突出した名機の一つではあるけれど、それが兵器として作られざるを得なかった不幸を、この「風立ちぬ」という映画は曲がりくねってちょっと無理があるラブロマンスに置き換えて描いていくことになる。

 ラブロマンスについては、堀辰雄の作品の数々が借景として用いられている。そうすることで、日本が戦争という泥沼にずぶずぶとはまっていく姿を別の形、つまり肺結核という不治の病として、どうしても「避けられないもの」として描いている。それが果たして映画として正しい演出なのかどうかは判らない。というのも、多くの人々はそれがゆえに、この映画の評価をする際に、二郎と菜穂子の恋愛のあり方を批判的な視点で見てそのまま語りあうことになるからだ。

 菜穂子という登場人物はとてもシンボリックな存在で、あれは人間ではなくて、実は「平和」というものを象徴しているのだろうと自分は思った。あの時代の中で平和は無くなっていくことがほぼ判っているけれど、もしかしたら何かが出来るかもしれないという、そうした焦燥感の中で人々が絶望しながらも儚い希望を委ねる存在だった。しかし、九六式艦戦が試験飛行を成功させることで菜穂子は姿を消す。つまり戦争は拡大し、平和が続く機会は失われるのだ。だから、戦争が終わって初めて菜穂子は帰ってくる訳だし、だからこそあの映画の中で戦争が終わって二郎はもう一度生きなければならない訳なのだけど、菜穂子が「平和」の象徴であることに気づかないと、単に死んでしまった妻が夢の中で甦るという、辛気くさいお涙頂戴物語でしかなくなってしまう。

 映画の中で二郎が喫うタバコも、あれはよくないことと判りつつ、人々がやめられない悪癖、つまりは戦争への荷担行為の象徴だったのではないかと思う。だからこそ、菜穂子の身体に悪いと知りつつ、我慢できないと言って同じ部屋で喫煙という行為に及ぶことが描かれる。戦後のシーンで二郎はタバコを喫わない。

 ハッキリ言って、この「風立ちぬ」という映画は端から子供向け作品であることを考えていないので、説明的な描写や物語がすごい勢いで省略されている。零戦が出てくるけれど、あれも堀越二郎が作ったということを知らない人はイマイチ意味不明かもしれないし、さらには戦後、堀越二郎は国産による初の旅客機「YS-11」の設計に参加するけれど、そういった後日談もとくには紹介されないから、映画の終わりで二郎に未来はあるのかどうかもよく判らない人は多かったろう。結局この映画は、ものすごく飛行機を好きな宮崎駿という人が、大好きな飛行機が戦争という時代を経なければ大きな進歩を遂げることができなかった不幸を、なんらかの形で正当化しつつ反省するみたいな、そういうとてもニッチな物語をアニメで描くにあたって、そこにある程度の普遍性を盛り込もうと、無理矢理文学に絡めてストーリーを作った怪作ということなんじゃないかと思う。

 結論として、「風立ちぬ」という映画は、飛行機、それもレシプロ機の時代に対する思い入れがある人ならば観る価値があるかもしれないけれど、飛行機に対する思い入れが一切無いような人は共感しにくい作品かもしれない。

 ところで、軽井沢で紙飛行機が飛ぶシーンは限りなく美しいけれど、あの紙飛行機は雑誌「子供の科学」で連載されていた「よく飛ぶ紙飛行機」シリーズへのオマージュなんじゃないだろうか。それとも、戦前のあの時代でも既にああいう紙飛行機はあったのだろうか。

4416305095新選 二宮康明の紙飛行機集〈1〉 (切りぬく本)
二宮 康明
誠文堂新光社 2005/12

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