March 30, 2010
神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」が好きだ(BlogPet)
wmsの「神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」が好きだ」のまねしてかいてみるね
BBCのどうかどうでもいいような人も多いことは謎だけれど、音楽という音が表現できて訳が十代の葛藤や興奮が強調されてしまえば、二度と戻ることだろうけれど、当初自主制作のあの瞬間の処理は聴く度に初めてロック的ないっ神聖かまっている。
*このエントリは、ブログペットの「わんこ」が書きました。
BBCのどうかどうでもいいような人も多いことは謎だけれど、音楽という音が表現できて訳が十代の葛藤や興奮が強調されてしまえば、二度と戻ることだろうけれど、当初自主制作のあの瞬間の処理は聴く度に初めてロック的ないっ神聖かまっている。
*このエントリは、ブログペットの「わんこ」が書きました。
March 22, 2010
[音楽]
神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」が好きだ
BBCの名物DJだった故ジョン・ピールは、Undertonesの「Teenage Kicks」という曲をこよなく愛した。その曲を愛した理由は、そこら中の女の子に欲情しているような十代の日々のどうでもいいような情景が、音楽という形で瑞々しく描かれていたからだ。大人になってしまえば、二度と戻ることはできない、あの十代の時だけの葛藤や興奮がそこにはあったから。
Undertones - Teenage Kicks (Real Promo Video)
そして、「Teenage Kicks」と同じように、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」は聴く度に、自分が十代のクソガキだった時に初めてロックにやられてしまった、あの瞬間の感動を再び思い出させてくれる、そんなパワーが満ちあふれている。
神聖かまってちゃん - ロックンロールは鳴り止まないっ
神聖かまってちゃんというバンドの音楽全てを自分が受け入れられるかどうかは不確かだけれど、この「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲だけは、一生変わることなく好きであり続けると断言できる。それほど好きだ。
ただ、ちょっと残念なのは、当初自主制作の形で発表されたバージョンと、その後CD盤で発表されたバージョンが異なること。CDでは、当初入っていた不思議なストリングス等の音が無くなり、その分ロック的なエッジのあるギターとベースの音が強調されたミックスになっている。けれど、そういう音の処理は、初めてロックに出会って訳が判らない瞬間のあの戸惑いやイライラ、そしてその後に突然ロックという音の魔術にはまってしまった後の快感が表現できていないような気がする。まぁ、これは個人的な好みだし、お決まりのロック的な音で構成されたCDバージョンを好きな人も多いことだろうけれど…。
このエントリーにはめ込んだYouTubeのPVはCD盤になる前の旧バージョン。使用されている動画の著作権を考えれば、いつまでネット上でアクセスできるかは謎だけれど、消されてしまうまではずっとここにある。そう、ロックンロールは鳴り止まないっ!
Undertones - Teenage Kicks (Real Promo Video)
そして、「Teenage Kicks」と同じように、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」は聴く度に、自分が十代のクソガキだった時に初めてロックにやられてしまった、あの瞬間の感動を再び思い出させてくれる、そんなパワーが満ちあふれている。
神聖かまってちゃん - ロックンロールは鳴り止まないっ
神聖かまってちゃんというバンドの音楽全てを自分が受け入れられるかどうかは不確かだけれど、この「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲だけは、一生変わることなく好きであり続けると断言できる。それほど好きだ。
ただ、ちょっと残念なのは、当初自主制作の形で発表されたバージョンと、その後CD盤で発表されたバージョンが異なること。CDでは、当初入っていた不思議なストリングス等の音が無くなり、その分ロック的なエッジのあるギターとベースの音が強調されたミックスになっている。けれど、そういう音の処理は、初めてロックに出会って訳が判らない瞬間のあの戸惑いやイライラ、そしてその後に突然ロックという音の魔術にはまってしまった後の快感が表現できていないような気がする。まぁ、これは個人的な好みだし、お決まりのロック的な音で構成されたCDバージョンを好きな人も多いことだろうけれど…。
このエントリーにはめ込んだYouTubeのPVはCD盤になる前の旧バージョン。使用されている動画の著作権を考えれば、いつまでネット上でアクセスできるかは謎だけれど、消されてしまうまではずっとここにある。そう、ロックンロールは鳴り止まないっ!
March 21, 2010
[マンガ・本]
長島陽子「中国に夢を紡いだ日々」を読んだ
極東ブログさんの書評を読み興味を覚えたので手に取ってみた。
熱心な中国共産党シンパだった著者が、今は産経新聞の読者であるという事実。単なるイデオロギーの転向というよりは、一人の活動家の誠実さ故の帰結。
副題にある「さらば」という言葉は、あくまでも政治のツールとしての「日中友好」に対してであり、人と人とが交わす情についての気持ちはいまだ絶えていないのだろうと読んだ。
それにしても、中国のような大国と政治で駆け引きをするのは途方もなく困難であり、今の日本が果たして5年先、10年先も独立国としてやっていけるのだろうかという不安は大きい…。
中国に夢を紡いだ日々―さらば「日中友好」 長島陽子 論創社 2009/10 著者略歴 長島 陽子 1929年東京神田に生れる。東京女子大学国語科卒業後、岩波書店に入社。書籍の校正、辞典の編集・校正に従事。1959年4‐5月、日本青年婦人訪中代表団に加わり訪中。以後日中友好運動に挺身したが天安門事件で日中友好協会を脱退。以後はもう一つの視点で日中交流を模索。1991年岩波を退職。1985‐93年東京YWCA市ヶ谷砂土原センターで中国帰国者に日本語を教える。1993‐94年北京の人民中国雑誌社に勤務。 |
熱心な中国共産党シンパだった著者が、今は産経新聞の読者であるという事実。単なるイデオロギーの転向というよりは、一人の活動家の誠実さ故の帰結。
副題にある「さらば」という言葉は、あくまでも政治のツールとしての「日中友好」に対してであり、人と人とが交わす情についての気持ちはいまだ絶えていないのだろうと読んだ。
それにしても、中国のような大国と政治で駆け引きをするのは途方もなく困難であり、今の日本が果たして5年先、10年先も独立国としてやっていけるのだろうかという不安は大きい…。
March 15, 2010
March 11, 2010
[ガラクタ]
どうでもいい話:「Hurt Locker」という英語には「棺桶」なんていう意味はない
今、日本では、映画「ハート・ロッカー」の原題「Hurt Locker」が、日本語では「棺桶」を意味すると信じ込んでいる人がかなり大勢いるらしい。
こうなった原因は、日本国内の映画配給会社が広報資料や公式Webサイト上で「ハート・ロッカー(行きたくない場所/棺桶)」と説明をしているからと思われる。
で、試しに「Hurt Locker」をネット検索してみたけれど、英語ネイティブなサイトや辞書・辞典の類で、この言葉が「棺桶」を意味するとしている記述は今のところ見つけられていない。
ちなみに、翻訳家の市村佐登美さんのブログ「ハートロッカーの意味:What "Hurt Locker" means?」では以下のように説明されていた:
ま、判りにくいモノが売れないご時世なのは確かだけれど、映画会社の中の人が勝手に意味を作っちゃうのはいかがなものかなと…。
こうなった原因は、日本国内の映画配給会社が広報資料や公式Webサイト上で「ハート・ロッカー(行きたくない場所/棺桶)」と説明をしているからと思われる。
で、試しに「Hurt Locker」をネット検索してみたけれど、英語ネイティブなサイトや辞書・辞典の類で、この言葉が「棺桶」を意味するとしている記述は今のところ見つけられていない。
ちなみに、翻訳家の市村佐登美さんのブログ「ハートロッカーの意味:What "Hurt Locker" means?」では以下のように説明されていた:
タイトルの「Hurt Locker」は爆発で不具になった人、そうなってもおかしくない危険地帯、痛みが極限に達する場所、を指す。米軍のジャーゴンだ。
ま、判りにくいモノが売れないご時世なのは確かだけれど、映画会社の中の人が勝手に意味を作っちゃうのはいかがなものかなと…。
March 08, 2010
March 05, 2010
[マンガ・本]
恩蔵茂「FM雑誌と僕らの80年代―『FMステーション』青春記」を読んだ
ネットの書評で知った本。著者は雑誌「FMステーション」で編集長を務めた人。表紙カバーの写真にあるシーナ・イーストンのイラストを配した創刊号は、実際に読んだ記憶があって懐かしすぎる。
読んでいると、自分がFM放送を熱心に聴いていた日々が走馬燈のように思い出された。
たぶん、あの頃にFMで音楽番組が無ければ、今の自分はこれほどには音楽を好きにはなっていなかったように思う。毎日、飽くことなくラジオを聴き、話題の最新アルバムが全曲一気に放送されるのをカセットに録音して何度も何度も聴き返したものだ。たぶん、今の40代ぐらいで音楽好きな連中は、皆そうして色々な音楽に出会ったはず。
自分よりも後の世代は、音楽との出会いはテレビだろうし、録音するためのネタはレンタルCDで、録音するのもカセットテープじゃなくてMDだったはずで、この辺りの違いは音楽の聴き方にも大きな違いを生んでいるような気がする。さらに、その後のMP3世代はまた全く違うだろうし…。
この本で描かれるFM放送というメディアの盛衰、そしてそれに合わせるように生まれ廃れていった雑誌の物語は、本当に色々と感慨深い。それにしても、隔週で番組表を作っていたエピソードは、当時は本当に大変だったとしても、今の時代から振り返るとなんとものんびりと大らかな感じがする。あと、企画等の物事の決まり具合が乱暴(笑)。
最後に出てくる「天下の某レコード会社の暴言」という章は、なんというか、こう書くと失礼かもしれないけれど、音楽雑誌にも五分の魂というか、ジャーナリズムの矜恃みたいな、なんとも憤懣やるかたなさが強くにじみ出ていて、著者がどうしても書きたかったテーマの一つなんだろうなと思ったり…。
FM雑誌と僕らの80年代--『FMステーション』青春記 恩蔵茂 河出書房新社 2009/09/12 エアチェックという言葉が一世を風靡した時代を懐かしむための本。想定読者層であろう40代以外の世代が読むのはちょっと辛いかも…。 |
読んでいると、自分がFM放送を熱心に聴いていた日々が走馬燈のように思い出された。
たぶん、あの頃にFMで音楽番組が無ければ、今の自分はこれほどには音楽を好きにはなっていなかったように思う。毎日、飽くことなくラジオを聴き、話題の最新アルバムが全曲一気に放送されるのをカセットに録音して何度も何度も聴き返したものだ。たぶん、今の40代ぐらいで音楽好きな連中は、皆そうして色々な音楽に出会ったはず。
自分よりも後の世代は、音楽との出会いはテレビだろうし、録音するためのネタはレンタルCDで、録音するのもカセットテープじゃなくてMDだったはずで、この辺りの違いは音楽の聴き方にも大きな違いを生んでいるような気がする。さらに、その後のMP3世代はまた全く違うだろうし…。
この本で描かれるFM放送というメディアの盛衰、そしてそれに合わせるように生まれ廃れていった雑誌の物語は、本当に色々と感慨深い。それにしても、隔週で番組表を作っていたエピソードは、当時は本当に大変だったとしても、今の時代から振り返るとなんとものんびりと大らかな感じがする。あと、企画等の物事の決まり具合が乱暴(笑)。
最後に出てくる「天下の某レコード会社の暴言」という章は、なんというか、こう書くと失礼かもしれないけれど、音楽雑誌にも五分の魂というか、ジャーナリズムの矜恃みたいな、なんとも憤懣やるかたなさが強くにじみ出ていて、著者がどうしても書きたかったテーマの一つなんだろうなと思ったり…。
March 04, 2010
[音楽]
単なる与太話:レコード会社を解体してみる試案(その1)
唐突だけど、今のレコード会社システムがかなり辛そうなので、じゃ今後どう解体されるのかをテキトーに考えてみる。ま、あくまでも与太話なので、マジには受け止めないでください(笑)。
で、まずは既存のレコード会社の業務を大雑把に仕分けしてみる。多分以下のような感じ。
ネット配信が登場するまで、音楽を売るという行為は、イコール、音源を収録したメディア(アナログ盤、カセットテープ、CD等々)を製造して販売することを意味していた。だから、製造部門がしっかりしていることは、レコード会社にとって非常に重要なことだった。
同様に、出来上がった音源収録メディアを全国の店舗へ行き渡らせるための営業力(レコード会社で「営業」というのは基本的に対レコード店への受注交渉業務を意味する)と流通力が大切な機能だった。
ところが、ネット配信の比重が大きくなりCD等の音源収録メディアが売れなくなるにつれ、これまで重要だった製造部門や営業・流通部門にかかるコスト(人件費、インフラ、ロジスティクス、etc.)が、そのパフォーマンスと見合わなくなってきた。特にプレス工場等を運用したりしている場合、その負担はかなり大きいし、売れない在庫の倉庫代もバカにならない。(現時点で純粋な自社プレス工場を稼働させている国内レコード会社はもはや無かったかも…)
当然、このままCDの売上が下落していけば、もうデータ配信だけで良いと考えるメーカーが出てきても不思議じゃないし、実際、シングル盤については着うたなどの配信のみでしか流通しない音源も増えている。
もしかすると近い将来、CD等、音楽ソフトの物理パッケージに関しては、どこか専門業者が市場ニーズに合わせたマーケティングで作品を選び、各レーベルやアーティストから原盤のライセンスをその都度受けて製造・流通・販売し、その売上からロイヤリティをライセンサー側に戻すというようなビジネスモデルが登場する可能性も十分考えられる。そして、その時の専門業者というのは、現在のタワーレコードの未来の姿なのかもしれない。
要は、音楽ソフトの物理パッケージ商売における最適化とリスク分散は必須であって、そのときに、原盤を持つアーティストやレーベルが、その責任を担保をする必要は無くなるのじゃないだろうかという与太話。
じゃ、ほかの業務についてどうなるかというのは、また改めて書く予定。
当ブログでの関連エントリー
・単なる与太話:レコード会社を解体してみる試案(その2)
・単なる与太話:レコード会社を解体してみる試案(その3)
で、まずは既存のレコード会社の業務を大雑把に仕分けしてみる。多分以下のような感じ。
経営(総務・人事・経理) |
法務(契約) |
制作 |
宣伝 |
製造 |
営業・流通 |
ネット配信が登場するまで、音楽を売るという行為は、イコール、音源を収録したメディア(アナログ盤、カセットテープ、CD等々)を製造して販売することを意味していた。だから、製造部門がしっかりしていることは、レコード会社にとって非常に重要なことだった。
同様に、出来上がった音源収録メディアを全国の店舗へ行き渡らせるための営業力(レコード会社で「営業」というのは基本的に対レコード店への受注交渉業務を意味する)と流通力が大切な機能だった。
ところが、ネット配信の比重が大きくなりCD等の音源収録メディアが売れなくなるにつれ、これまで重要だった製造部門や営業・流通部門にかかるコスト(人件費、インフラ、ロジスティクス、etc.)が、そのパフォーマンスと見合わなくなってきた。特にプレス工場等を運用したりしている場合、その負担はかなり大きいし、売れない在庫の倉庫代もバカにならない。(現時点で純粋な自社プレス工場を稼働させている国内レコード会社はもはや無かったかも…)
当然、このままCDの売上が下落していけば、もうデータ配信だけで良いと考えるメーカーが出てきても不思議じゃないし、実際、シングル盤については着うたなどの配信のみでしか流通しない音源も増えている。
もしかすると近い将来、CD等、音楽ソフトの物理パッケージに関しては、どこか専門業者が市場ニーズに合わせたマーケティングで作品を選び、各レーベルやアーティストから原盤のライセンスをその都度受けて製造・流通・販売し、その売上からロイヤリティをライセンサー側に戻すというようなビジネスモデルが登場する可能性も十分考えられる。そして、その時の専門業者というのは、現在のタワーレコードの未来の姿なのかもしれない。
要は、音楽ソフトの物理パッケージ商売における最適化とリスク分散は必須であって、そのときに、原盤を持つアーティストやレーベルが、その責任を担保をする必要は無くなるのじゃないだろうかという与太話。
じゃ、ほかの業務についてどうなるかというのは、また改めて書く予定。
当ブログでの関連エントリー
・単なる与太話:レコード会社を解体してみる試案(その2)
・単なる与太話:レコード会社を解体してみる試案(その3)
March 01, 2010
映画「涼宮ハルヒの消失」を観た
なんとなく気になって、映画「涼宮ハルヒの消失」を観に行った。
で、感想としては、ほぼ一見さんの自分としては、やはり敷居が高かったというのが正直なところ。かろうじて、「七夕」のエピソードをネットのどこかで見たことがあったのが非常にラッキーだったというか、あの話を知らなかったらアウトだった…。
月並みな評論になるけれど、この映画は、男の子が男になるためのイニシエーション的な物語なんだろうと思う。そして、最後に若干のモラトリアム。いくつになっても男はこういう部分を持ったままイジイジして日々を過ごしているのだけれど、女性から観てこの物語は果たして共感できるのだろうかという疑問は残る。
興味深く感じたのは、ヒロインのハルヒよりも、長門有希と朝比奈みくるの登場する時間の方が長く、しかも2人の方がずっと魅力的なキャラクターであったということ。最後の病院のシーンなどは、長門とみくるの気持ちを慮ると正直泣けた。歳とると、こういうことでいとも簡単に泣けて、それがまた情けなくて泣けたりする(笑)。
この映画を観てシミジミ思ったのは、ここまでマニアックでやや独りよがりで難解なストーリーの作品って、イマドキの邦画の世界ではアニメでしか作れないのが残念だなということ。実写の場合は、集客に結びつくキャスティングに加えて、色々な芸能事務所のパワーバランスの問題も影響しているのだろうけれど。本作については、ライティングやフレーミングも凝っていて、そういう点でも贅沢な作りだなと思った。さすが京アニということなのか。
ハルヒのシリーズのファンなら観て損はないというか、絶対観た方が良いと思う。ただ、全然ファンじゃない人にとって、2時間42分53秒はかなり長いかもしれない。
そうそう、以前に七夕の話を観ていたのにも関わらず、この映画を劇場で観るまで、ハルヒって単なるラブコメだとずっと思っていた。恥ずかしい限り。
あと、サティの音楽は、この映画にはまさにピッタリで良かった。
で、感想としては、ほぼ一見さんの自分としては、やはり敷居が高かったというのが正直なところ。かろうじて、「七夕」のエピソードをネットのどこかで見たことがあったのが非常にラッキーだったというか、あの話を知らなかったらアウトだった…。
月並みな評論になるけれど、この映画は、男の子が男になるためのイニシエーション的な物語なんだろうと思う。そして、最後に若干のモラトリアム。いくつになっても男はこういう部分を持ったままイジイジして日々を過ごしているのだけれど、女性から観てこの物語は果たして共感できるのだろうかという疑問は残る。
興味深く感じたのは、ヒロインのハルヒよりも、長門有希と朝比奈みくるの登場する時間の方が長く、しかも2人の方がずっと魅力的なキャラクターであったということ。最後の病院のシーンなどは、長門とみくるの気持ちを慮ると正直泣けた。歳とると、こういうことでいとも簡単に泣けて、それがまた情けなくて泣けたりする(笑)。
この映画を観てシミジミ思ったのは、ここまでマニアックでやや独りよがりで難解なストーリーの作品って、イマドキの邦画の世界ではアニメでしか作れないのが残念だなということ。実写の場合は、集客に結びつくキャスティングに加えて、色々な芸能事務所のパワーバランスの問題も影響しているのだろうけれど。本作については、ライティングやフレーミングも凝っていて、そういう点でも贅沢な作りだなと思った。さすが京アニということなのか。
ハルヒのシリーズのファンなら観て損はないというか、絶対観た方が良いと思う。ただ、全然ファンじゃない人にとって、2時間42分53秒はかなり長いかもしれない。
そうそう、以前に七夕の話を観ていたのにも関わらず、この映画を劇場で観るまで、ハルヒって単なるラブコメだとずっと思っていた。恥ずかしい限り。
あと、サティの音楽は、この映画にはまさにピッタリで良かった。